アメリカのゲイ社会を行く

アメリカのゲイ社会を行く

気になった部分を抜粋。

 

たしかに二つのグループは将来どのようにしたいのかという夢については相違があるように見られる。急進派たちは全国的な(そして国際的な)制度や生活様式の全面的な変化を望んでいる。穏健派はゲイたちが主流に入り込むことを願っている。急進派の目標は社会を変えることである一方、穏健派のそれは社会に入り込むことである。
 二つの目標が両立することはないのだろうか?もちろんそれは不可能だ。
 しかし少なくとも今のところ、二つのグループが協調できない原因は見られない。穏健派が求めている自由はゲイに対する偏見をなくすこと、雇用や住宅に関する差別を終わらせること、過去の否定的なステレオタイプを廃棄することなど、否定的なものばかりである。これらの目標は改良などの中途半端な対策は、革命の炎を湿らせるだけだと考えているマルクス主義者以外の急進派にとっては、必ずしも容認できないものではない。(マルクス主義者たちは不満を隠しているよりは、苦しみを露にした方がいいと考えている)
 もちろん、時には、二つのグループが争うこともある。急進派たちは選挙に勝つことよりも意見をはっきりとさせる方を好むだろう。戦略的には、急進派は怒りや正面衝突を好み、他のゲイとの違いを隠そうとしない。対照的に、穏健派たちは説得や、政治的駆け引き、統一戦線を好む。
 にもかかわらず、私は目標のヒエラルキーは作ることができるかもしれないと思う。穏健派の考える否定的自由は、それ以上どのような変換を望むにしても、勝ち取る価値があると思われる。公民権の基本的な綱領は、すべてのゲイと進歩的な友人に忠誠すべてを要求することになるだろう。しかし恐らく、いつものように私はいささか楽観的すぎるのかもしれないが。

この本が書かれた時代(1980年)については
簡単なものだが以下参照
http://www.asahi-net.or.jp/~vi6k-mrmt/jmm-kn2.htm

ストーンウォール暴動があり、gay culture とgay politicsの分離が進み、ハーヴェイミルクが登場し、死んだ直後にあたる。

政治の季節真っ只中だと思われがちだが、政治と言っても対立は存在するのだ、と今の日本のLGBTの状況を考え合わせると示唆的。
LGBTが一枚岩ではないことは当たり前だが、今の昔も左翼思想とどう折り合いをつけるのかは、重要な問題である。

クイア・スタディーズ (思考のフロンティア)

クイア・スタディーズ (思考のフロンティア)

この本に詳しいが、20世紀初頭の「ホモファイル運動」では、共産党シンパが排斥される動きもあった。上記のホワイトの指摘が今でもなおアクチュアルなのは、1969年に起こった世界的なラディカリズムの動きが、今なお衝撃を残していることの証左なのだろう。
尾辻かな子は、この二つのどちらかか?と言われれば、「穏健派」と呼べるだろう。
マイノリティという用語を選択し、それを積極的に使った彼女の選挙戦は、まさに「ハーヴェイミルク」の日本版だったことに今気づいた。
ミルクも何回か落選をしているわけだから、彼女もいつかの当選に向けてがんばってほしいと「穏健派」の私は思う。
まぁしかし、ここでの穏健派も日本では急進派なのだが。。。