コンプレックス(3) (ソノラマコミック文庫)

コンプレックス(3) (ソノラマコミック文庫)

達也と淳一、
幼馴染二人の人生を描ききった名作。
絶版になるらしく、買うなら今です。

レズビアンの孝子と達也の間に一夜のあやまちによって、子供ができてしまいます。(子供の名前は健太)

そのとき、達也は淳一と同棲していたのですが、孝子と結婚することを選択します。

その後、孝子が、「がん」だったため若くしてこの世を去り、
達也と淳一はお互いの気持ちに向き合い、健太とともにまた一緒に住むことになります。
(孝子はかわいそう)

この話は、達也と淳一の話だけではなく、健太の話を導入することで、物語に深みを出しています。

ここで、この男だけの家族は
イカップルが子供を育てることに伴う困難にぶつかります。
つまり、子供もゲイになってしまうかもしれないという問題と、
学校でのいじめ(おまえの父親、ホモなんだってな!)
ですね。

これは本当に都合のよい展開だとは思いますが、
健太に思いを寄せる学(がく)が登場します。
健太は彼と昔からの親友で、将来一緒に一人ぐらしをする約束をしています。
(もちろん、幼いときの話なので、きちんとした約束ではありませんが。一緒に一人ぐらしということもおかしな話ですが、一人ぐらし=大人になった証拠という意味合いでしょう)




健太は、学からの告白を通じて、
自分の気持ちはただの友情の域を出ないと知りつつも、
本当にただの「友情」なのか自問するようになります。

また、健太の父親である達也は、学に対して、
「君の健太に対する思いは、いきすぎた友情だとは言えないのか?」
と問います。

つまり、同性に対する思いが友情だと思いたい人に対しては
「これは友情なのか?」と自問させ

同性に対する思いが愛情だと信じてやまない人に対しては
「それは本当に愛情なのか?ゆきすぎた友情ではないのか?」と問う。

友情と愛情のそれぞれに対してその自明性を問うという構造になっています。

ここで達也のモノローグが導入されます。

「友情と恋の境目なんてないのかもしれない。あるのは想いだけ」


この話がすごいのは、ここで終わらないところです。
境目はありません、わかりません、で終わっていない。

学に対する達也の台詞が示唆的です。

「でも、ひとつだけ言えるのは、友達以上の関係になったら二度と後戻りはできないってことだけだ。」
「これは、君の気持ちがどれだけ強いとかそういう問題じゃない」
「好きだけじゃ幸せにはなれないんだ」



恋と友情の間に境目はない。想いしかない。
しかし、友達以上になったら後戻りはできない。
そして、想いだけでは幸せにはなれない。

この命題について、思ったことをいくつか箇条書きで書いてみます。

1.友達以上になったら後戻りはできない。について

仮説として、3つぐらいあると思われ。
A.愛情には愛情の固有の論理がある。

B.社会的規範につなぎとめられた愛情の概念に固執するので、後戻りはできないと思っているだけで、愛情に対する意識を変えることで、後戻りは可能。(なぜなら、友情と愛情には境目がないから)

C.友情→愛情は可能だが、愛情→友情は不可能。


ここまで書いておいてあれですが、
別に後戻りする必要があるのか?と言われれば「ない」と言えるでしょうね。
結局、後戻りできるとかんがえてしまうことは
友情と愛情の間に線引きをすることになるわけですから。

ここでの、「友達以上になったら後戻りはできない。」という発言を
私は、ネガティブに捉えてしまったのですが、
むしろこれはポジティブに捉えるべきであり、
友達=性愛を介さないもの
愛情=性愛を介したもの
という前提を疑え。
というメッセージだと受け取るべきなのでしょう。
やはり、思考の転回が必要だと。



2.想いだけでは幸せにはなれない。について
本当に箇条書きで書きます。

・人間関係は、個々人の思いだけでつなぎとめておくことはできず、何らかの社会的承認を必要とすること(それが幸せにつながる)

・そこでの社会的承認とは、異性愛を前提としており、同性愛は含まれていないこと

・そして、異性愛・同性愛関わらず、愛情・恋・恋愛という概念に対して、その自明性を疑う姿勢が必要とされていること

・社会的承認を確立するためには、政治による具体的な政策が必要とされること

アメリカのゲイ社会を行く

アメリカのゲイ社会を行く

気になった部分を抜粋。

 

たしかに二つのグループは将来どのようにしたいのかという夢については相違があるように見られる。急進派たちは全国的な(そして国際的な)制度や生活様式の全面的な変化を望んでいる。穏健派はゲイたちが主流に入り込むことを願っている。急進派の目標は社会を変えることである一方、穏健派のそれは社会に入り込むことである。
 二つの目標が両立することはないのだろうか?もちろんそれは不可能だ。
 しかし少なくとも今のところ、二つのグループが協調できない原因は見られない。穏健派が求めている自由はゲイに対する偏見をなくすこと、雇用や住宅に関する差別を終わらせること、過去の否定的なステレオタイプを廃棄することなど、否定的なものばかりである。これらの目標は改良などの中途半端な対策は、革命の炎を湿らせるだけだと考えているマルクス主義者以外の急進派にとっては、必ずしも容認できないものではない。(マルクス主義者たちは不満を隠しているよりは、苦しみを露にした方がいいと考えている)
 もちろん、時には、二つのグループが争うこともある。急進派たちは選挙に勝つことよりも意見をはっきりとさせる方を好むだろう。戦略的には、急進派は怒りや正面衝突を好み、他のゲイとの違いを隠そうとしない。対照的に、穏健派たちは説得や、政治的駆け引き、統一戦線を好む。
 にもかかわらず、私は目標のヒエラルキーは作ることができるかもしれないと思う。穏健派の考える否定的自由は、それ以上どのような変換を望むにしても、勝ち取る価値があると思われる。公民権の基本的な綱領は、すべてのゲイと進歩的な友人に忠誠すべてを要求することになるだろう。しかし恐らく、いつものように私はいささか楽観的すぎるのかもしれないが。

この本が書かれた時代(1980年)については
簡単なものだが以下参照
http://www.asahi-net.or.jp/~vi6k-mrmt/jmm-kn2.htm

ストーンウォール暴動があり、gay culture とgay politicsの分離が進み、ハーヴェイミルクが登場し、死んだ直後にあたる。

政治の季節真っ只中だと思われがちだが、政治と言っても対立は存在するのだ、と今の日本のLGBTの状況を考え合わせると示唆的。
LGBTが一枚岩ではないことは当たり前だが、今の昔も左翼思想とどう折り合いをつけるのかは、重要な問題である。

クイア・スタディーズ (思考のフロンティア)

クイア・スタディーズ (思考のフロンティア)

この本に詳しいが、20世紀初頭の「ホモファイル運動」では、共産党シンパが排斥される動きもあった。上記のホワイトの指摘が今でもなおアクチュアルなのは、1969年に起こった世界的なラディカリズムの動きが、今なお衝撃を残していることの証左なのだろう。
尾辻かな子は、この二つのどちらかか?と言われれば、「穏健派」と呼べるだろう。
マイノリティという用語を選択し、それを積極的に使った彼女の選挙戦は、まさに「ハーヴェイミルク」の日本版だったことに今気づいた。
ミルクも何回か落選をしているわけだから、彼女もいつかの当選に向けてがんばってほしいと「穏健派」の私は思う。
まぁしかし、ここでの穏健派も日本では急進派なのだが。。。

絶版の「ダンサー・フロム・ザ・ダンス」(アンドリュー・ホラーラン著、栗原知代訳、マガジンハウス、1995)を転載します。

いつ終わるか分かりませんが、名作だと思うので、気にいりましたら、ぜひご購入をば。


真の神の美業は、無邪気に快楽を受容できる、
無垢な肉体にこそ、花咲き、踊る。
絶望が美を生むことや、
徹夜明けの頭に叡智が
宿ることはけっしてない。
ああ、地中深く根を張る、満開の栗の大木よ、
そなたの本体は、葉か花か、それとも幹か?
ああ、音楽に合わせて揺れる肉体、きらめく眼、
誰が分かつことができよう、踊る人から踊りの実体を!

ウィリアム・バトラー・イェイツ
(学童たちを眺めて)


プロローグ



南部のある町にて、深夜これを記す
エクスタシーへ
 ついにジョージア州チャタフーチーにも春が訪れた。ツツジが鮮やかに咲きほこる一方、誰もがガンで死にかけている。
 この手紙を書いているのは、真夜中だ。明かりはケロシン・ランプのみ。だが昆虫はその明かりを目指し、ぼくのすぐ脇の網戸に激突する。まるで愛を求める人のようだ、ニューヨークでは数え切れない人が、それを必死に捜し求めていたじゃないか。そうだろ?押しあいへしあい、一生懸命。
 申し訳ないが、ぼくの現在の住所を教えることはできない。ぼくは以前の生活と、すっぱり手を切りたいんだ。きっと今頃、ぼくのニューヨークのアパートメントは、ゴキブリやネズミの大群がわく、ゴミ溜めになっているにちがいない。階下の女性は、結核のような咳をゴホゴホやっているだろうし、隣の男は妻を殴っているだろう。『アイ・ラブ・ルーシー』の、二重録音した笑い声が、階段にこだまし、ぼくの電話はなり続けているはずだ。だが、ぼくは気にしない。なぜならもう二度と、元の生活に戻るつもりはないからだ。あそこに戻るくらいなら、ぼくはこの野原で一匹の獣のように死んでいきたい。月と星と虚空に顔を向け、頬を露で濡らして、朽ち果てたいのだ。

初めての日記

perfumeポリリズム」が、2007年、日本のゲイアンセムになったことを受けて、「〜ズム」って響きから、mixiのニックネームに「ズム」をつけて、それっぽくしました。

内容は、LGBT、フェミニズムクィアスタディーズ、BL(ボーイズラブ)が中心。
のつもりですが、どうなることやら・・・・・・