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- 作者: まんだ林檎
- 出版社/メーカー: 朝日ソノラマ
- 発売日: 2006/11/21
- メディア: 文庫
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達也と淳一、
幼馴染二人の人生を描ききった名作。
絶版になるらしく、買うなら今です。
レズビアンの孝子と達也の間に一夜のあやまちによって、子供ができてしまいます。(子供の名前は健太)
そのとき、達也は淳一と同棲していたのですが、孝子と結婚することを選択します。
その後、孝子が、「がん」だったため若くしてこの世を去り、
達也と淳一はお互いの気持ちに向き合い、健太とともにまた一緒に住むことになります。
(孝子はかわいそう)
この話は、達也と淳一の話だけではなく、健太の話を導入することで、物語に深みを出しています。
ここで、この男だけの家族は
ゲイカップルが子供を育てることに伴う困難にぶつかります。
つまり、子供もゲイになってしまうかもしれないという問題と、
学校でのいじめ(おまえの父親、ホモなんだってな!)
ですね。
これは本当に都合のよい展開だとは思いますが、
健太に思いを寄せる学(がく)が登場します。
健太は彼と昔からの親友で、将来一緒に一人ぐらしをする約束をしています。
(もちろん、幼いときの話なので、きちんとした約束ではありませんが。一緒に一人ぐらしということもおかしな話ですが、一人ぐらし=大人になった証拠という意味合いでしょう)
健太は、学からの告白を通じて、
自分の気持ちはただの友情の域を出ないと知りつつも、
本当にただの「友情」なのか自問するようになります。
また、健太の父親である達也は、学に対して、
「君の健太に対する思いは、いきすぎた友情だとは言えないのか?」
と問います。
つまり、同性に対する思いが友情だと思いたい人に対しては
「これは友情なのか?」と自問させ
同性に対する思いが愛情だと信じてやまない人に対しては
「それは本当に愛情なのか?ゆきすぎた友情ではないのか?」と問う。
友情と愛情のそれぞれに対してその自明性を問うという構造になっています。
ここで達也のモノローグが導入されます。
「友情と恋の境目なんてないのかもしれない。あるのは想いだけ」
この話がすごいのは、ここで終わらないところです。
境目はありません、わかりません、で終わっていない。
学に対する達也の台詞が示唆的です。
「でも、ひとつだけ言えるのは、友達以上の関係になったら二度と後戻りはできないってことだけだ。」
「これは、君の気持ちがどれだけ強いとかそういう問題じゃない」
「好きだけじゃ幸せにはなれないんだ」
恋と友情の間に境目はない。想いしかない。
しかし、友達以上になったら後戻りはできない。
そして、想いだけでは幸せにはなれない。
この命題について、思ったことをいくつか箇条書きで書いてみます。
1.友達以上になったら後戻りはできない。について
仮説として、3つぐらいあると思われ。
A.愛情には愛情の固有の論理がある。
B.社会的規範につなぎとめられた愛情の概念に固執するので、後戻りはできないと思っているだけで、愛情に対する意識を変えることで、後戻りは可能。(なぜなら、友情と愛情には境目がないから)
C.友情→愛情は可能だが、愛情→友情は不可能。
ここまで書いておいてあれですが、
別に後戻りする必要があるのか?と言われれば「ない」と言えるでしょうね。
結局、後戻りできるとかんがえてしまうことは
友情と愛情の間に線引きをすることになるわけですから。
ここでの、「友達以上になったら後戻りはできない。」という発言を
私は、ネガティブに捉えてしまったのですが、
むしろこれはポジティブに捉えるべきであり、
友達=性愛を介さないもの
愛情=性愛を介したもの
という前提を疑え。
というメッセージだと受け取るべきなのでしょう。
やはり、思考の転回が必要だと。
2.想いだけでは幸せにはなれない。について
本当に箇条書きで書きます。
・人間関係は、個々人の思いだけでつなぎとめておくことはできず、何らかの社会的承認を必要とすること(それが幸せにつながる)
・そこでの社会的承認とは、異性愛を前提としており、同性愛は含まれていないこと
・そして、異性愛・同性愛関わらず、愛情・恋・恋愛という概念に対して、その自明性を疑う姿勢が必要とされていること
・社会的承認を確立するためには、政治による具体的な政策が必要とされること